味を言葉へ移そうとするときに起きること
口の中に広がった味わいをそのまま言葉へ移そうとすると、たいていの人は途中で立ち止まります。おいしいという一語にたどり着いた瞬間に、そこから先へ進めなくなってしまうことがよくあるからです。
甘いという言葉ひとつを取っても、その中には濃さや後に残る長さなど、多くの要素が畳み込まれています。ところが口にした瞬間にはそれらが一つの塊として届くため、分けて語ることが難しくなってしまいます。
味わいを言い表すために持ち出される言葉の多くは、実は別の感覚から借りてきたものになっています。丸いとか重いといった手ざわりや重さの言葉が、そのまま味の説明として使われているのが実情です。
借りてきた言葉であるからこそ、受け取る人ごとに思い浮かべる姿がずれてしまうということが起こります。同じ表現を聞いても、ある人は温度を思い、別の人は形を思うということが平気で起きてしまうのです。
さらに厄介なのは、味わいの記憶が一人ひとりの暮らしと分かちがたく結びついているという点です。幼い頃に親しんだ味を土台にして言葉が組み立てられるため、共通の物差しが最初から存在していません。
香りについても事情は同じで、名前のついていない香りのほうが世の中には圧倒的に多く存在します。言い表す名前がないものを説明しようとすれば、たとえに頼るほかに方法がなくなってしまいます。
たとえに頼れば頼るほど、話はどこか詩のようになっていき、正確さからは静かに遠ざかっていきます。互いに伝わったような気持ちにはなれても、実際には何も渡せていないということが起こり得るのです。
こうした難しさを前にして、味は言葉にできないものだと考えたくなる気持ちも十分に理解できます。それでも作り手たちは、この壁の前でいつまでも立ち止まったままでいるわけにはいかないと考えています。
それでも言葉を探し続けようとする理由
言葉を探し続ける理由の一つは、言い表せない狙いは自分の手でも再び作れないという点にあります。何をよいと感じたのかがはっきりしないままでは、次の日に同じ味へたどり着くことができません。
うまく言い表せた瞬間に、これまで漠然としていた狙いが急にはっきりとした形を持つことがあります。言葉が味を追いかけるだけでなく、言葉のほうが味を引っ張っていくという場面も確かに存在します。
作り手どうしで味わいについて話し合うときにも、言葉の精度がそのまま議論の深さを決めていきます。どこをどう変えたいのかを言い表せなければ、二人で同じ方向を向くことすら難しくなってしまいます。
店に立ってお菓子を勧める場面でも、味わいを言い表す力は大きな働きをすることになっていきます。相手の求めているものと目の前にある菓子とを結び直すのは、結局のところ言葉だけが担える役目だからです。
食べた人から届く感想の言葉は、作り手が気づいていなかった側面を照らし出してくれる灯りです。思いもよらない言い表し方に出会うたびに、自分の菓子の見え方が更新されていくことになります。
製菓を学ぶ学校の実習でも、味わいを自分の言葉にして伝え合う時間が設けられていることがあります。互いの言葉をじっくり聞き比べるうちに、自分の感じ方の癖が少しずつ見えてくるようになるからです。
言葉にしようとする営みは、味わいをより注意深く受け取ろうとする姿勢そのものを育ててくれます。説明しようと構えて口へ運ぶだけで、感じ取れることの量が増えるという経験は珍しくありません。
つまり言葉を探すことは、味を人へ渡すためだけではなく、自分の感覚を鍛えるための営みでもあります。人へ伝えるための道具として始めた作業が、いつの間にか自分の目を細かくしてくれているということです。
言い表す力を育てていくための小さな習慣
言い表す力を育てるうえで役に立つのは、口にしたその場で短い言葉を残しておくという習慣です。時間が経ってから思い出そうとすると、その印象は頭の中で都合よく整えられてしまうことが多いからです。
最初から気の利いた表現を狙うのではなく、思いついた言葉を並べていくほうが結果として実ります。ばらばらの言葉をあとから眺め直すうちに、そこに共通する軸が浮かび上がってくることがあります。
感じた順番を意識しながら言葉にしていくという方法も、混乱を防ぐうえで大きな助けになってくれます。最初に感じたこと、中ほどで広がったこと、あとに残ったことという順で分けて記していくやり方です。
自分だけに通じる言葉をあえて使ってみるという試みも、自分の感覚を細かくするうえで役に立ってくれます。人へ伝わるかどうかは後から考えればよく、まずは自分の中ではっきりと像を結ばせることが先になります。
ほかの人がどう言い表しているのかを集めておくことも、自分の語彙を広げる助けになってくれます。同じものを別の言葉で言い直せるようになると、伝える相手に合わせて選べるようになっていきます。
味わいそのもの以外の要素を切り分けて考えるという構えも、言葉の精度を上げるうえで欠かせません。器の見た目やその日の気分といった要素が、いつの間にか味の印象へ混ざり込んでいることが多いからです。
同じ菓子を違う日に口へ運び、そのつど言葉を残していくという方法も、感じ方の幅を教えてくれます。同じものが日によって違って感じられるという事実そのものが、多くのことを語ってくれるからです。
こうした習慣を長く続けていても、味わいを完全に言い表せる日が訪れることはおそらくありません。それでも近づこうとする過程で、味への向き合い方そのものが確かに変わっていくことになります。
まとめ
口の中に広がった味わいを言葉へ移そうとすると、多くの人はおいしいという一語の手前で立ち止まってしまいます。借りてきた言葉に頼るほかなく、受け取る人ごとに思い浮かべる姿がずれてしまうという難しさがあるからです。
味わいの記憶は一人ひとりの暮らしと分かちがたく結びついており、共通の物差しは最初から存在していません。名前のついていない香りが数多くある以上、たとえに頼るという方法から完全に離れることもできないのでしょう。
それでも作り手が言葉を探し続けるのは、言い表せない狙いには自分の手でも二度とたどり着けないからでした。うまく言い表せた瞬間に、これまで漠然としていた狙いが急にはっきりとした形を持つということも起こります。
その場で短い言葉を残し、順番を意識して分けて記し、ほかの人の言い方を集めておくという習慣が助けになります。自分だけに通じる言葉をあえて使ってみることも、感じ方を細かくしていくうえで役に立ってくれる方法でした。
味わいを完全に言い表せる日というものは、おそらくこの先もいつまで経っても訪れることはないのかもしれません。それでもその一口をどう言い表すのかと問い続けることで、味への向き合い方そのものが静かに変わっていくのでしょう。
