消えてなくなるものだと思い込んでいた頃
お菓子というものは口へ運ばれた瞬間にすっかりなくなってしまうと、長いあいだ思い込んでいました。形あるものとして手元に残らないのだから、その先には何ひとつ残らないのだと決めつけていたのです。
その思い込みがあったせいで、一つひとつの菓子を軽く扱ってしまっていた時期が確かにありました。どうせ消えてしまうのだからと考えて、細部への手当てを省いてしまった日が何度もあったのです。
同じものを大量に仕上げなければならない日には、その気持ちが決まっていっそう強く顔を出していました。並んでいるうちの一つくらいはという甘えが、いつの間にかそっと自分の手元へ忍び込んできていたのです。
見た目が少し崩れていても、味さえきちんと整っていれば構わないだろうと考えたこともよくありました。受け取る人にとってはその一つがすべてなのだという当たり前を、まるで分かっていませんでした。
いま思い返すと、あの頃に自分の手を離れていった菓子たちに対して申し訳ない気持ちになります。誰かの大切な日に届いていたかもしれないという想像が、当時はまるで働いていなかったからです。
この思い違いに気づかせてくれたのは、ずいぶん時間が経ってから何気なく届いた一通の便りだったのです。何年も前のある日に食べたというひとつの菓子の話が、驚くほど細やかな言葉でそこには綴られていたのです。
そこには、その日の天気や、一緒にいた人のことまでもが、菓子と結びついた形で記されていました。消えてしまったはずのものが、その人の中では何年も確かに残り続けていたということになるのでしょう。
菓子はそもそも形として手元に残らないというだけであって、何も残さないわけではまるでなかったのです。このごく当たり前のことに気づくまでに、ずいぶんと長い回り道をしてしまったのだといまは感じています。
食べ終えたあとに静かに残っていくもの
食べ終えたあとに残るものの筆頭は、何といってもその菓子と結びついた場面の記憶だといえるでしょう。味そのものよりも、誰とどこで食べたのかという情景のほうが強く残るということも珍しくありません。
その記憶は年月とともに薄れるどころか、思い出すたびに少しずつ形を整えていくことがあります。あのときの菓子はおいしかったという記憶が、その日一日全体をあとから明るく照らし直してくれるのです。
人と人との間にも、菓子は実は確かなものを残していくのだということが少しずつ分かってきています。誰かと分け合った時間は、その後の関わり方をやわらかくしてくれるという働きを持っているからです。
贈られた菓子の記憶が、贈ってくれた人への気持ちをそのまま長く支え続けるということもよく起こります。品物そのものは消えてしまっても、大切に思われていたという感触はその人の中に静かに残り続けていくものです。
家庭の中で受け継がれていく菓子には、世代を越えて渡されていくという確かな性質が備わっています。祖母の作っていたものを孫が受け継いで作るという場面が、いまも各地の台所で静かに繰り返されています。
その菓子を通じて、会うことのなかった人の手つきまでもが伝わっていくということが起こります。作り方が渡されるということは、その人のものの考え方までもが静かに渡されるということでもあるからです。
作り手自身の側にも、送り出した菓子は確かに残っていくのだと、やがて気づかされることになります。あの日うまく仕上がらなかったという記憶が、いつまでも手元に留まり続けるという経験があります。
残るものを合わせて考えていくと、菓子はきわめて長い時間を生きる存在なのだと分かってきます。口の中にある時間の短さと、その後に続いていく時間の長さとの落差には、いつも改めて驚かされます。
残るからこそ引き受けることになるもの
残っていくものがあると分かった以上、作り手はその重さを自然と引き受けていくことになっていきます。目の前の一つが誰かの記憶になっていくのだと思えば、細部を省くという選択はもはやできなくなります。
とはいえこの重さは、押しつぶされるための重さではなく、こちらを静かに支えてくれる重さでもあります。誰かの中に残っているかもしれないという思いが、続けていく力を日々静かに与えてくれているからです。
だからこそ作り手は、一つひとつをできるかぎり同じ気持ちで送り出そうと努めることになるのでしょう。何十と並んでいるうちのたった一つであっても、受け取るその人にとってはただ一つの菓子だからです。
製菓を学ぶ学校で最初に伝えられるのも実は、このごく当たり前の心構えであることが多いと聞きます。技術の話よりも先に置かれているという事実そのものが、その大切さを何よりもはっきりと物語っています。
残るものを意識しすぎるあまり手が縮こまってしまうのは、また別の問題をかえって生むことにもなります。丁寧であるということと、恐れながら作るということとは、まるで別のものだと知っておく必要があります。
そのためには、自分が良いと信じられるものを作るという一点へ立ち返るのが最も確かな道になります。誰かの記憶に残るかどうかということは、そもそもこちらで決められることではないからだといえるでしょう。
残していくものの大きさを思うたびに、菓子という仕事の奥行きにあらためて深く静かに向き合わされます。ほんの短い時間で食べ終えられてしまうものに、これほどの時間が宿っているという事実があります。
その事実を胸に置いたうえで、今日もまた作業台へ向かうということを繰り返していくことになります。消えていくものを作りながら、消えないものを残しているのだという感覚が支えになってくれます。
まとめ
菓子というものは口へ運ばれた瞬間にすっかりなくなってしまうのだと、長いあいだ思い込んでいた時期がありました。その思い込みのせいで一つひとつを軽く扱ってしまっていた日々のことを、いまでも悔やむ気持ちが残っています。
実際のところは、食べ終えたあとにこそ多くのものが残っていくのだということが、少しずつ分かってきました。その菓子と結びついた場面の記憶は、思い出すたびに少しずつ形を整えながら、長く残り続けてくれるものでした。
人と人との間にも菓子は確かなものを静かに残し、家庭の中では世代を越えて受け継がれていくこともありました。作り方が渡されるということは、その人のものの考え方までもがそのまま一緒に渡されるということでもありました。
残っていくものがあると分かった以上、作り手はその重さを自然と静かに引き受けていくことになるのでしょう。ただしそれは押しつぶされるための重さではなく、これからも続けていく力を与えてくれる支えでもあったといえます。
口の中にある時間の短さと、その後に長く続いていく時間の長さとの落差には、いつも改めて驚かされてしまいます。消えていくものを作りながら、実は消えないものを残しているのだという感覚を、これからも胸に置いておきたいものです。
